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壬生は以前と違う宿に宿泊していた。 無論、理由あっての事だ。 怪我の療養という名目が通用する宿にしなければならない。 それには、あの宿では都合が悪かった。 怪我をして帰ったジュリアを見られては大騒ぎになるだろう。 間違っても病院などには行けない。 その姿は人でもジュリアは人間ではないのだから。 「波の音が聞こえるね」 その声は、あの夜から丸一日たってからの事だった。 「よかった。 目を覚まさないかと思った」 あの後、再び気を失ったジュリアはなかなか目を覚まさなかったのだ。 それは怪我よりも、精神的なダメージの大きさを物語っていた。 「もう・・・大丈夫」 そう告げるジュリアの額には汗が滲みだしている。 「何か欲しいものとかないかい?」 あるいはもう最後の時が近いのかもしれない。 そう感じた壬生は勤めて明るい声でそう告げた。 「うーん、そういえば・・・」 「なんだい?」 「ラジカセ・・・は?」 その声に苦笑を浮かべて、壬生は指差す。 「ほら、そこにある」 その指の先には、枕元に置かれたラジカセがあった。 それを見て安心するジュリアだった。 「・・・ねえ、お兄ちゃん」 「なんだい?」 「窓を開けて欲しいな・・・」 「寒いよ?」 「波の音を聞きたいの」 「・・・分った」 そう答えると、壬生は窓を開ける。 今まで聞こえていた潮騒(しおさい)のおとが、窓を開けたことではっきりと聞こえてくるようになる。 ここは海に近い宿。 その波の音は、宿泊客の耳を楽しませるのだろう。 それに今はわずかに雨の音も混じっている。 外は霧雨が降っていた。 その潮騒を聞きながら、ジュリアは静かに告げた。 「ここは海に近いんだね」 「すぐそこが海だからね」 そこはあの浜辺に近い場所だった。 「ねえ、お兄ちゃん」 「なんだい?」 「私ね・・・新しい服が欲しいな」 「服・・・かい?」 「うん。 破れちゃったしね。 それを着て行きたい場所があるの」 「・・・分った。 買って来てあげるよ」 「うん。 雨降ってるのにゴメンね」 「大丈夫だよ。 それよりちゃんと寝てるんだよ」 そう言うと、壬生は部屋を後にした。 その数分後。 壬生が帰ってこないことを確認したジュリアは、痛む体を起こすと、ゆっくりとした動きでラジカセにテープを収める。 そして、ラジカセを手に窓辺に腰掛けると誰に聞かせるでもなく呟く。 「もう一度・・・ニライカナイに行きたかったなぁ」 その体は、滲み出すかのように汗を滴らせている。 いや、それは汗などではなかった。 最後の時が近いのだ。 その体は倦怠感と痛みを伴いながら・・・ゆっくりと水に還っていたのだ。 ジュリアは、全身を襲う痛みを我慢しながら、録音ボタンを押した。 そして・・・それを感じさせない声で話し出す。 「ごめんね。 お兄ちゃん。 お別れも言わないで、海に帰ることを許してね」 そして、部屋の中に・・・潮騒と雨の音に混じって、どこまでも美しい声が響いた。 数十分後。 部屋に帰った壬生が見たのは・・・。 窓辺に残されたジュリアの着ていた服と、その周囲を濡らす窓から吹き込んだらしい大量の雨水だけだった。 こうして、たった数日間の壬生の短くも長かった休暇は終わり、彼は再び電車に揺られていた。 その耳には、ラジカセから伸びるイヤホン。 『ごめんね。 お兄ちゃん。 お別れも言わないで、海に帰ることを許してね』 その言葉から始まるその歌は、何処までも美しい。 声に混じる潮騒と雨の音は、その歌を邪魔する事無く、それどころか引き立てるのに一役たっていた。 そして、壬生もその歌を聞きながら、その夜と同じようにその目を閉じる。 その歌声は、夜の浜辺で聞いたものよりも素晴らしいものだった。 どこまでも澄んだ歌声。 その声は喜びと命への賛美に満ちていた。 それは、その少女の故郷ともいえるニライカナイの海そのものなのかも知れない。 『お兄ちゃん。 海はね、悲しみだけを生み出す場所じゃないの。 それを覚えていて欲しいの。 だから・・・もう海を見て泣かないでね。 きっとまた会えるよ』 その言葉を最後に、テープは終わっている。 もう何度も聞いた言葉。 壬生はすでに何十回もそのテープを聞いていた。 そして、その最後の言葉を聞くたびに思うのだ。 『ジュリアは本当に、あそこで死んだんだろうか?』 壬生にはどうしても、ジュリアの死が信じられなかった。 いや、それは単に死んだことを信じたくないだけなのかもしれない。 現に、来須は言った。 『あの子に残された時間はもうわすかしかない』 そして、最後に見た具合の悪そうなジュリアの笑顔。 それらから導き出される答えはただ一つ。 それは・・・死だ。 しかし、このテープの最後の言葉。 それは、ジュリアが自分の死を隠すために言ったのだろう。 しかし、その言葉を信じていれば・・・いつか又会えるのかもしれない。 壬生はそう思えて仕方ないのだった。 そして、数ヶ月後。 街の雑踏の中、壬生は懐かしい声を聞いた。 「お母さん」 「どうしたの? ジュリア?」 その声は、間違えるはずもないオーロラとシュリアの声。 その姿の主を探す壬生の視線の先に、幼い女の子を連れた女性と、その胸に抱かれた赤子。 その子供は、ソバカスの浮いた顔に、腰まである髪を三つ編みにしていた。 「コロナもう寝ちゃったの?」 「そうね、だからあんまり大きな声をだしちゃダメよ?」 「はーい」 呆然となった壬生の前を、その幸せそうな家族はゆっくりと通り過ぎ・・・街の雑踏の中に消えていった。 そこに、待ち合わせをしていた女性が現われる。 「どうしたんですか? 壬生さん、なんだか幽霊でも見たような顔していますよ?」 「いや・・・なんでもないよ。 それより、キミは奇跡というものを信じるかい?」 その突然の問いかけに、その女性は首をかしげながら答える。 「そうですね・・・愛の奇跡なら」 「愛か・・・僕も奇跡ってやつを信じてみるかな」 「どうしたんです? 突然?」 「いや、色々あってね」 「よかったら聞かせてくれませんか?」 「まあ、機会があったら話すよ」 そう答えた壬生の口元には、僅かに笑みが浮かんでいた。 「なにか良い事でもあったんですか?」 「まあ、いろいろとね」 「もう、それじゃ分りませんよ」 その答えに壬生の浮かべた笑顔は、どこまでも晴れやかものだった。 <終わり> |