write by ちゃんちゃん☆様.
───目の前が真っ白に霞む、と言うのはきっとこういう瞬間なのだろう。
全てが『無事』済んだ、と胸をなで下ろしていた。
そして最後のツメにと『事件』後、あのフリージャーナリストとやらの自宅へ、素知らぬフリで留守番電話を入れておいたのだ。コーチたちは関係者としてインタビューのことを知っていたし、その方が、約束をすっぽ抜かれた人間としての、当然な行動だと判断したから。
なのに。
時を待たずに、死んだはずの相手から謝罪の連絡が入った時は、心臓が止まるかと思ってしまった。
かと言って、何も知らないはずの自分が『あなたは死んだはずでは』と聞くわけにも行かず、好奇心を装ってあちこちから情報を集めた結果、愕然となった。
自分が、全くの別人を手にかけてしまったのだ、と知って───。
霧る(き・る)
1)霧が立ちなびく。くもる。かすむ。
2)目がくもってはっきり見えない。
旺文社 古語辞典新版より
3)目が涙でかすむ。
三省堂 大辞林より
阿師谷伊周と村雨祇孔、そして『若旦那』が会いまみえていた頃。
フリージャーナリスト・天野絵莉は、とある喫茶店を目指して歩いていた。
自ら望んでのことではない。先ほど警察病院から自宅の留守電に確認の電話を入れたところ、フィギュアの的場瞬選手から「是非会いたいから」と、この場所を指定して来たメッセージがあったのである。
断ろうにも「今しか時間がない」と言い残されていては、こちらの立場は弱い。何せこちらの都合で一旦、インタビューを断っているのだから。幸い、彼の指名した喫茶店は、彼女も知っている店だったが。
───だから「最近マスコミがうるさいから、このことは誰にも告げずに1人で来てくれ」と言う、一見奇妙な条件を聞かされても、彼女は特に不審に思わなかったのである。それで絵莉は友人のことを気にかけながらも、警察病院をこっそり抜け出した。
そのうち彼女は、人けのない通りに差し掛かった。少し物騒ではあるが、目的の喫茶店へはここから行けば近道になる。
気合いを入れて歩き出した絵莉は最初、汗を拭き拭き急いでいた。だがそのうち、周辺の雰囲気の異様さに眉をひそめずにはいられなくなる。
霧がたちこめ始めたのだ。まるで彼女の行く手を阻むかのように。
「一体これは………」
ふと思い出すのは、焼肉屋で一緒になったあの2人の証言。かっぱらいが友人を突き倒す寸前に、何故か霧がたなびいていた、そんな話。
───そう言えば、少しだけ辺りが涼しくなったような………。
「でも………別に関係ないわよね?」
つい足を止めてしまったものの、そう呟いて再び歩き出そうとした彼女は、だが次の瞬間愕然とした。
「なっ………!?」
足が踏み出せないのだ。まるでこの場で靴もろとも、接着剤か何かでくっつけられたかのように!
あわてて靴を脱ぎ、パンスト素足になったものの同じことだった。パニック状態になりつつも、絵莉は自分の足の裏が異様に冷たくなっていることに気づき、青褪める。
自分は今、凍り付こうとしているというのか。
雪国でもない、山間部でもない、真夏の、東京のど真ん中で───!?
周囲を覆い尽くさんばかりの霧が、冷気と熱気の温度差が原因で発生しているのだと気づいた時には遅かった。寒さのせいか声すら出せず、助けを請うことも出来ないまま、絵莉はありえない自然の脅威になすすべもない。
<助けて───さんっ………!!>
思わず脳裏に浮かんだ者へ、生きながら凍らせられる恐怖と共に彼女は訴えた。
だが祈りも空しく、意識が真っ白になった───まさにその時である。
『絶場・素十九ッ!!』
どこかで聞き覚えのある掛け声と同時に、天野絵莉の体は4、5M後ろへと吹き飛んだ。
バッシャーン!
そこにあったのは、おそらくは昼間使われたまま置き去られていた、子供用のビニールプール。さすがに『冷気』の影響はなかったらしく、水を満面と湛えたその中に、絵莉は頭からまともに突っ込んだ。
「ゲホッ、ゴホッ………」
いくら浅いとは言え、数センチも水があれば人間は溺れるもの。それを自ら体験する羽目になった彼女は、咳き込みながらも何とか起き上がった。
そして気づく。今まで凍り付いて動かなかった手足が、ちゃんと機能していることに。
「た、助かった………」
「天野さん!」
いきなり声をかけられ、思わず身構える。が、近くへ駆け寄ってくるのが顔見知りの少年であることに気づいた。
「あなたはきさ………」
「話は後です。早く僕と一緒に、ここを離れてください」
言うが早いか、少年は駆け寄る際に拾い上げた彼女の靴を手渡す。そして彼女がそれを履いている間、周囲に油断なく視線を走らせるのだった。
当然のことながら彼女の履いていたパンストは、デンセンを通り越してとんでもない状態になってしまっているが、今はそれどころではないだろう。
「………OKよ!」
「じゃあ行きます!」
少年は絵莉の手を引き、一刻も早くその場を離れるべく走り出した。
「どこへ行くつもりなの?」
自分を襲った『魔人』の正体も、目的も分からない今、どこへ逃げても追って来るのではないか。そんな恐怖が、絵莉にそんな質問をさせる。
それに対しての少年の答えは、淡々としていた。
「警察病院です。あなたの友人が運ばれた………あそこならとりあえず、人目がありますから」
「で、でも、もし私を殺そうとした犯人が追いかけてきたら………!」
「それは大丈夫です。ちゃんと足止めをしてくれる奴が、後に残っていますから」
「あなたの『仲間』なの? まさかひょっとして………」
絵莉はつい思い描く。最近知り合った陽気で明るい、不思議な『力』を持つ少年少女たちの姿を。
だが、彼女と一緒に夜道を走る少年は否定した。
「仲間………と呼ぶのはお互い不本意、と言うべきなんだろうが………間違いなく腕『は』立つ奴等ですよ。安心してください」
そう断言してから、何故か彼は苦笑いを浮かべて呟く。
「にしても、どうして『絶場・素十九』を使うんだ………凍結には炎じゃないのか?」
「え?」
「独り言です。………とにかく急ぎましょう」
2人はタクシーを拾うべく、ひたすら走り続けた───。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「間一髪だったな………」
後に残される形となった1人・村雨祇孔は、遠ざかって行く足音に安堵の溜め息を漏らす。
「だけど、どうして『絶場・素十九』なのよ? しーちゃん。火属性の方が適役なのにさあ」
そしてもう1人の、『若旦那』にして『お互い不本意』と言わしめた急ごしらえの『仲間』・阿師谷伊周が鋭いツッコミを入れる。
状況が緊迫していようがいまいが、自分のペースを守るのは彼の常だ。
「知るか。とっさに花札を繰り出したら、真っ先に出たのがそいつだったんだよ」
そして、彼女のいる場所からちょっと離れたところに、あのビニールプールが見えたのだ。このまま手加減をして絵莉を突っ込んでやれば、夜まだ残る暑さと水の恩恵で、溶けるかもしれないと踏んだのだが───どうやら正解だったらしい。
「ホント、しーちゃんの人生って、ギャンブル一色って感じ………」
「まあ俺のことはともかくだ」
村雨は指先でつまんだ花札で、前方の草むらへと狙いを定める。
「そこにいるのは分かってる。出て来いよ。何なら引きずり出してやったっていいんだぜ? ………アイススケートの第一人者・的場瞬!」
キィ………ン。
返答は───急激な冷気。それを予測していた村雨は焦らず騒がず、花札を手繰って<術>を発動させた。
『赤短・舞炎ッ!!』
ゴゥッ………!
紅蓮の炎は一気に、草むらすらも燃やし尽くす。
そして、隔てるものがなくなった村雨の目に、1人の青年の姿が映った。
そう───今までは雑誌やTVでしか見たことがなかった、氷上のプリンスことフィギュア選手・的場瞬の姿が。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
───時間は少しさかのぼる。
他ならぬ的場瞬が、天野絵莉の命を狙っているらしいことを察した村雨と伊周、そして『若旦那』の3人は、とにもかくにも当人に注意を促すべく、連絡を取ろうと試みた。
まずは伊周が村雨の携帯電話を使い、覚えていたナンバーで絵莉の自宅へかけ、『若旦那』が少し離れたところにあった公衆電話で電話帳を頼りに、彼女の友人が収容された警察病院へとかけたのだが………。
「………ダメだわ。エリちゃんてば、まだ家には帰りついてないみたい。留守電になってるもの」
1度かけたくらいでは、トイレ使用中等の理由で呼び出し音に気づかないかもと、3度ほど試みた結果伊周がうめく。
さっきまで、的場瞬が真犯人との説に反発しまくっていた彼とは思えない。さっさと気持ちを切り替えてしまっているのだろう。
「じゃあ、まだ病院にいるってことか………?」
村雨はそう呟いたが、
「大変だ! 彼女はついさっき、急用が出来たとか行って病院を抜け出したらしい!」
公衆電話で連絡を取ろうとしていた『若旦那』が、血相を変えて電話ボックスから飛び出して来る。
「家に帰ったんじゃないのか?」
「それが………公衆電話でどこかへ電話をかけていた後だったらしいんだ。しかも話をする風でもなく、ただ黙って受話器に耳を傾けていたって話だから、自宅の留守電のメッセージを確認していたってことなんじゃないのか? さっき君たちが言っていた方法で!」
まさか───的場瞬本人が吹き込んだ伝言で、呼び出されたのでは………!?
事態が最悪の方向へ進行しつつあることを悟り、3人は青褪める。
「まずい………このままでは彼女の身が危ない………!」
「しかし、今呼び出してどうするってんだよ? よしんば殺したとしても、留守電に残るメッセージで、警察に気づかれるかも知れないってのに。今まで必死に事故に見せ掛けようと企ててた相手が、そんな危ない橋渡るか?」
自分ならまず、そんなことはしない。村雨はついそう思ったのだが、殺しのプロ2人の主張は冷徹だった。
「ご親切にも、打ち合わせ場所で殺すことはないんじゃないかしら? その途上の、それこそ人気のない場所で襲う可能性の方が高いわ。………そう思わない? 飛水流の忍者さん」
「その件に関しては僕も同感だね。彼女を殺した後で、何食わぬ顔で待ち合わせ場所で待ちぼうけを食らわされた………というポーズを取るつもりかもしれない」
「だ、だけど、アリバイとかはどうするんだよ? 真っ先に調べられること、疑いないじゃねえか!」
本来なら村雨が、的場瞬を擁護するような発言をするのはお門違いだろう。だが現実には何の関わりのない村雨が的場を庇い、ファンであるはずの伊周が糾弾する形になろうとは、皮肉なものである。
「………的場瞬が例えば『力』の持ち主で、その『力』が『凍結』だったら………どう?」
「え………」
「それなら遺体を新鮮なままにしておけるし、死亡推定時刻を誤魔化すことが出来るかもしれない───そんな虫のいいことを考えても、不思議じゃあないと思うけど」
実際に誤魔化せるかどうか、ではないのだ。出来るかもしれない、と言う甘い考えこそが、人を犯罪に駆り立てることもある。
しかし、どうして伊周は的場瞬の能力を『凍結』だと結論づけたと言うのだろう。
村雨のそんな疑問が、まともに表情に出ていたらしい。伊周は小さく溜め息を吐いた後、何の抑揚もない声で続ける。
「………だって彼は、フィギュア選手なのよ? それも『氷上のプリンス』とまで謳われた。しーちゃん、彼の『氷上のプリンス』って異名には、貴公子然とした雰囲気の美青年って言うことの他に、理由があるの。どんな悪いコンディションの悪いリンクでも、彼は見事に滑ってみせるって言う、ね………。それが無意識のうちに使っていた『凍結』能力のお陰だとしたら、説明はつくでしょ?」
「だからって、必ずしも『凍結』能力者だってことには………」
「───いや、多分彼の推測は当たっていると思うよ」
伊周の説を弁護したのは、意外にも『若旦那』だった。
「村雨、天野さんがどんなテーマで、的場瞬を取材しようとしていたのか思い出してみたまえ。『あなたの恩師について』だったはずだ。そして、不幸にも『事故死』した、彼の以前のパートナーの死因は『凍死』。………確か彼女は、的場瞬を見出した『大恩人』だって話じゃなかったかい?」
「……………!?」
「そうなのよねー。それに、アタシとしーちゃんがエリちゃんのオトモダチを見かけた時、事前に霧が発生してたでしょ? てっきり噴水のせいだとばかり思ってたけど、『凍結』能力を使った際の気温差のせいだとしたら説明がつく───そう思わない?」
2人が何を言わんとしているかに気づき、村雨は言葉もない。
的場瞬の元パートナーは事故死などではなく、的場に殺されたのだ、と。
そして、単に専属コーチのことをインタビューしようとしている天野の思惑も知らず、的場瞬は疑心暗鬼にとらわれてしまったのだ、と。
彼女が、オカルト方面から自分をインタビューしようとしている───ひいては自分の過去の『犯罪』を暴き立てようとしている、と思い違いをしているのだ、と………!
そうと分かれば、一刻も早く彼女を保護すべきだろう。だが現実はあまりに厳しい。
「………問題なのはあいにく病院関係者も誰も、天野さんの行き場所は聞いていない、ということなんだ」
『若旦那』が苦渋の表情を浮かべ、村雨がやはり眉をひそめて応じる。
「的場瞬にあらかじめ、口止めされていたんだろうな」
「多分そんなところでしょうね。マスコミにかぎつけられないように、とか何とか言われたんでしょうよ。前みたいにね」
言いながら、伊周は懐から符を取り出した。そしてたちまち数体の式神に変えたかと思うと、あちこちへ飛ばし始める。
「とりあえず『あのコ(式神)たち』に彼女を探させてるけど………ただめくらめっぽうに探索しても、時間と手間がかかるばかりでしょうねえ」
さしもの伊周も、かなり苛ついている様子で髪をかきむしりながらうめく。
「………ったく! こんなことならいつものあたしらしく、プライベートだのモラルだの気にしないで、エリちゃんの留守電の暗証番号盗み見ておけば良かったわ!」
そうすれば、少なくとも天野絵莉が向かっているだろう場所ぐらい、留守電のメッセージを聞くことで知ることが出来ただろうに。───そう続けようとした伊周だったが。
ふと………気がついたように村雨へと向き直る。
「………でもないか」
「え?」
「そーだったわあ。良く考えたらここには、超・悪運の持ち主のしーちゃんがいたんだったわあ♪」
「ちょ、ちょっと待て」
「………なるほど。村雨の強運なら、あるいは暗証番号も当てずっぽうで何とかなるかもしれないな」
「をい………☆」
「ってわけで、頑張って暗証番号当ててね、しーちゃん。確か暗証番号のケタ数は、4ケタだったはずだから。それをヒントにして頑張ってねえ♪」
「無茶言うな、てめえ! どんなに地を這う確率だって、分かってて言ってんのか!?」
「10000分の1の確率だ。単純計算なのに、そのくらい分からないのかい? ───ともかく。時間が惜しいんだ、せいぜい励みたまえ」
「……………………………てめえら覚えてろよ!」
伊周には面白がられ、そして『若旦那』には脅し付けられるようにされて、村雨は悲壮な決意と共に公衆電話ボックスへと潜り込んだ───。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
幸い、村雨の幸運の泉はまだ枯れ果ててはいなかったらしく、何と2回目のチャレンジで留守電のメッセージを聞くことが出来た。
そうして待ち合わせ場所を聞き出した彼らは、大急ぎで駆けつけたと言うわけである。もちろん伊周の式神たちに、絵莉の居場所を探索させながら。
「君たちも………ボクと同じような『力』を持っているのかい………?」
緊張と警戒を隠しもせず。
もはや消し炭と化した植え込みの陰から立ち上がった的場瞬が、初めて村雨と伊周の前で口を開いた。
これが、何も知らなかった数時間前のことなら、伊周のことだから狂喜して小躍りしただろうが───。
「さあ、ね。その辺は御想像に任せるわ」
応じる伊周の声は、明るさとは程遠かった。
「………とにかく、あたしたちはあんたに害を及ぼすつもりはないの。今なら間に合うわ。罪を認めて手を引いて頂戴」
村雨は彼の言い草に、内心胸をなで下ろしていた。あるいは強烈なファン心理から、伊周が的場を逃がそうとするかもしれない───そう、考えたからである。
正直言って、伊周と的場がタッグを組んで自分に襲い掛かって来たら、無傷で済むとは、到底思えない。………負ける気などさらさらないが。
「罪を認めろ、だって………?」
だが、的場瞬が返した言葉は半ば狂気に彩られていた。
「そんなこと、出来るとでも思っているのか? あ、あいつらジャーナリストが『彼女』との関係を面白おかしく書きたてて、ボクの生活をメチャクチャにしたって言うのに! ここで罪を認めたら、またボクはマスコミに叩かれるんだ! 血のにじむような努力のお陰で、今のボクがあるって言うのに! あいつらはほ、ほんの少しの上っ面だけの報道で、それをブチ壊しにするんだ!」
「エリちゃんは単に、あんたのコーチのことをインタビューしたかっただけなのよ! 元パートナーの死の真相には、気づいてないの! 知ってるのはアタシたちだけなの、だから今手を引けば、穏便に事が済むかもしれないんだってば!」
天野絵莉当人が気づいていないのなら、あるいは事件をなかったことに出来るかもしれない───そう判断しての伊周の説得なのだろうが、効力はないに等しかった。
───いや。
「……………そうか。そうなんだな、ふふっ、じゃあ君たちさえここで殺しちゃえば、真相は永久に闇の中かも知れないんだね………?」
かえって、別の危険を教えてしまったらしい。
ざあ………っ………。
うつろな目で笑った的場をまるで護るかのように、辺りには薄い霧が発生し始めた………。
「なっ………!」
「ちいっ! 『牡丹』ッ!!」
『凍結』能力を使ったのだと気づき、村雨はとっさに周囲へ『炎』属性の術を放つ。間一髪、動きを封じられることだけは防ぐことが出来たが。
「………! いねえだと!?」
視界を遮る霧が晴れたその先からは、的場瞬の姿は消えている。村雨は慌てて辺りを見回した。
「しーちゃんっ!」
いきなり伊周が体当たりを食らわし、村雨をその場から突き飛ばす。そこへ白い悪魔が、音も立てずに飛来した。
的場瞬が、何時の間にか彼らの背後へと降り立っていたのだ。
キィン!
転んだ弾みで、伊周が手を地面につけていたのはまずかった。そこから『凍結』で、地面に貼り付けられる格好になったからだ。
だが彼は、何のためらいもなくそれを即座にはがし取る!
「ぐぅあっっ!!」
───いやな音がして、皮膚の一部を凍った地面に残したまま、伊周は今いる場所から飛びすさった。
今度は村雨が、自分のそばへ彼を抱き寄せる。かなり強引に。
伊周の手の平からは、とめどもなくボタボタと鮮血が滴り落ちていた。
「………手当てしてる余裕なんて、ないわよしーちゃん」
『月見酒』で治療を施そうとする友人を制して、伊周は呟く。
「彼は、フィギュア選手だけあって、身が軽いの、ものすごく。2人してくっ付いてれば即座に、凍り付かせられるのがオチなの、よっ!」
言うが早いか、今度は村雨を蹴飛ばす。
キキュ………ンッ!
またしても冷気が襲い掛かるも、伊周は2度目の失敗はおかさなかった。何とかかわしながら、取り出したハンカチですばやく掌を包み込むようにしている。みるみるうちにハンカチに染み渡る血は、どうしようもなかったが。
一瞬的場の注意が、伊周に集中したのに気づき、村雨はすかさず攻撃を仕掛けた。
『絶場・素十九っ!』
気合いを込めて放った術は、だがあっさりとかわされてしまう。
目をみはるほどの見事な瞬発力で飛びすさった的場は、着地すると同時に反撃へと転じた。
『凍れ………』
キィン!
「させるかっ! 『赤短・舞炎ッ!!』」
ゴウ………ッ!
白き冷気と紅蓮の炎が衝突し、激しい風が巻き起こる。
今や村雨は『炎』属性の術で、『凍結』を相殺するだけで手いっぱいになっていた。
伊周が指摘した意味が、村雨にもやっと理解できた気がする。
相手は日本屈指のフィギュア選手で、日頃氷の上で三回転ジャンプなどやってのける人間なのである。それだけの運動神経と瞬発力と言う、下地があるのだ。術の見極めさえ出来れば、よけながら攻撃に転じることぐらい、わけないではないか!
この手の能力者だと、身の軽さが災いして力技に弱いのが常だ。だが接近戦に持ち込んで殴りかかろうにも、その前に凍らせられて動きを止められては、話にならない。
必死に打開策を模索している村雨とは別に、伊周は血だらけの手でもって必死に攻撃を仕掛けている。むろん、うかつに近寄ったりせず、遠距離攻撃で。
「バン・ウン・タラク・キリク・アク、我が元に仕えし三十六獣神よ………あいつをぶちのめせっ!!」
ドンッ! バキッ!
───そして彼が『獣神招来・三十六禽舞』を繰り出し、花壇のレンガもろとも的場を吹き飛ばそうとして失敗したのを見て、村雨は気がついた。
今の瞬間、伊周の目論見は吹き飛ばしたレンガでの、間接的な物理攻撃だったろう。確かに力技に弱そうな的場には、そういう手が有効に違いない。もっとも、古くなっていたそのレンガは、力を加え過ぎたせいで固まりのままには飛ばず、あっさりとよけられてしまったのだ。
だが的場はジャンプ一番、伊周の頭上に飛んでいながら、何の攻撃もしかけなかった。
そのため。
「きゃっ! ………アブナイアブナイ」
よけられたと判断するが早いかその場から飛びすさった伊周への、最接近距離からの攻撃機会をみすみす逃してしまっている。
───しかしこれが、絶好のチャンスをうっかり逃したのではなく、『出来ない』のだとすれば?
そう言えばさっきから的場は、『着地と同時に』攻撃を仕掛けてばかり、きたではないか。
つまり彼は空中ではまるで攻撃が出来ず、体がどこかに付いていないと『凍結』能力を発揮できない、とすれば?
伊周は言っていた。彼はスケートリンクで無意識のうちに『力』を使っていたのだろう、と。そうなると当然、足伝いに発動されることになる。現にさっきからの攻撃は全部、『足が付いていた』地面からのものばかりだったではないか!
となれば、手段は1つ。的場の足が地面につかないうちに気絶させるなり、とどめを刺すなりすること。
───つまり伊周との連携で、的場を空中に跳躍させると同時に攻撃を仕掛ける!
ドンッ!
そしてその時、まさに村雨の思惑をくんだかのように、伊周が的場をジャンプさせるような攻撃を仕掛けたのである。
むろん、この千載一遇のチャンスを逃す機はない。
「もらったっ! 『猪・鹿・蝶! 紫雷ッ!!』
渾身の『力』を込めた雷と麻痺属性の術が、的場目掛けて発動されんとした、まさにその時。
「ダメッ、しーちゃんっ!」
ドン………ッ!
事もあろうに伊周が放った『聖衆征滅』が、村雨の攻撃を相殺する格好となってしまった。
───いや、格好などではない、けして。伊周は明らかに、的場瞬を庇ったのだ。
一瞬の絶句の後、村雨が激怒したのは当然の成り行きだろう
「………何考えてやがんだっ! 折角のチャンスを台無しにしやがって!」
「だって今の『術』じゃ、彼間違いなく頭から落ちちゃったじゃないっ。良くても半身不随、最悪即死よっ!」
「この期に及んで、何でそいつを庇うんだよともちゃん!」
「ヤキモチ妬かないでしーちゃん。彼には生きて、自分の罪を償う権利も義務もあるの! 死なせたり半身不随じゃ、話にならないのよ!」
が、伊周の折角の好意も、仇となって返される。
『凍れっ!』
ガチィンッ!!
「うっ!?」
「ともちゃんっ!」
こちらの好機とばかりに発せられた『冷気』が、たちまち伊周の足を凍り付かせたのだ。
動けなくなった伊周を更に凍らせようと言うのか、的場はその場で『力』をためるような素振りを見せる。
そうはさせじと村雨も、素早く花札を繰ろうとしたが。
「我が元に仕えし三十六獣神よ………」
例によって例のごとく、伊周が『獣神招来・三十六禽舞』の呪文を唱えようとしているのを耳にし、ぎょっと振り返る。
伊周の今の位置だと、彼の『獣神招来・三十六禽舞』攻撃はわずかに的場には届かない。だからこそ的場は足止めと言う手段に出たのだ。
なのに今、何に攻撃を仕掛けようと言うのか───!? 伊周の意図に思い至った時、村雨は焦りと共に『術』を発動させた。
「………アタシの足をぶっ飛ばし………」
「馬鹿野郎おっ! 『牡丹ッ!!』」
ゴオ………ッ!!
───間一髪。
伊周の『獣神招来・三十六禽舞』が彼自身の足をひきちぎる前に、村雨の『牡丹』の炎が氷を瞬解した。
「………だから! 何考えてるって言ってんだよ! いくら足止め食らったからって、何で足ごとぶっ飛ばそうなんざっ!」
言いながら、村雨は抜け目なく的場のいる場所から遠ざかる。冷気を食らわないために。
「仕方ないでしょ、アタシにはしーちゃんみたいに『凍結』に対抗できる『術』なんて使えないんだからっ!」
「だからって、足吹き飛ばそうとするか、フツー!? 大量出血で即座にあの世行きだぞ!」
「ちゃんと手加減はするわよ! アタシの三十六獣神なんだからっ。それにアタシは、この間の拳武館のボーヤみたいに蹴り技使うわけじゃないんだし、全然OKでしょっ!」
「どこがだっっっ!!」
思い切り怒鳴り付けておいて。
村雨は伊周の、とんでもないくらいの戦闘意欲にあ然とせずにはいられない。おそらく村雨だけに任せておいては、的場が死にかねないと踏んでいるのだろうが。
<何で………こうまでしてあいつを庇うんだ?>
───そう、『庇う』。
伊周が何がなんでも動こうとしたのは、的場に『罪を償う正当な権利と義務』とやらを与えるためなのだろう。それは一見酷ではあるが、あきらかに彼のためを思ってのことである。言いようによっては殺したり、半身不随にした方が慈悲となるだろうから。
逃亡させたり、かくまったりするよりはまだ、それは村雨寄りの考えには違いない。だが………。
「………ヤバいっ!」
怒鳴り続けていたせいで、一瞬対応が遅れる。その間に的場は『力』を溜め終えたらしく、朗々とした声で言い放った。
『2人とも凍れ………!』
「「!?」」
パア………ンッ………!
その刹那───全てが無と化した………。
==========================
「な………!?」
的場瞬は、今、自分の目の前で起きている事態が把握できずにいた。
『凍結』は確かに発動されたはずなのだ。村雨と伊周、2人を物言わぬ氷像と化すために。
なのに。まさか『術』が一瞬にして、無効化されようとは!
「………そこまでにしていただきましょうか? 的場瞬さん」
涼やかな、聞き覚えのない静かな声音が、的場を即座に振り向かせる。
「!?」
───そこにいたのは、まるで幽玄の世界から抜け出たような、美しくも冷たい美貌の青年。
三角形を2つ、正反対に組み合わせた紋を、胸元にあしらった平安装束を身に纏い、黒い艶やかな長い髪をゆうるりと揺らせて、的場を見据えていた。
そして、彼は聞いたのだ。自分同様、事態の急展開に呆然としていた村雨が、かすれた声でこう、青年に向かって呼びかけるのを。
「……………み、かど………?」
==============================
───茫然自失の時間が過ぎ去れば。
後に押し寄せるのはけたたましい怒声である。
「………って………晴明ぃっ!! ぬわあああんであんたがここにいるのよっ! しかもっ、何よその格好っ! 貴公子然としちゃってくれてるけどねえっ、今は夏なのよ、夏っ!」
「ともちゃんともちゃん、お前、御門のこと絶対言えねえって………☆」
「見るからに暑っ苦しいったらありゃしないでしょっ! アタシたちへの嫌がらせ以外の何物でもないじゃない、どーいう根性してるのさっ」
「だーかーらー。人のフリ見て我がフリ直せって言葉、思い出せってともちゃん」
伊周の日焼け対策ルックの被害を1人で担っていた村雨が、ここぞとばかりツッコんだ。
「心頭滅却すれば………と言うでしょう。このくらい、大して暑くはないのですよ。もっとも私は、ですけどね?」
早九字で『凍結』を瞬時に無効化し。
唐突に現われた村雨たちの知己───御門晴明は、伊周と顔を合わせるなり、早速いつもの『ご挨拶』と来る。
「アタシなら根性なしにも、暑がるって言いたいワケえ? 何ならそのケンカにただちに小切手帳、札びらみたいに叩き付けてあげてもよくってよお………?」
暑苦しさと戦闘後の疲れのせいか、伊周の切り返しはいつもと比べてキレが悪い。ここぞとばかりに村雨は、2人の間に割って入った。
「待った! ケンカなら後で仲良くゆっくりしろ」
「「誰が仲良く」」「ですか!」「なのよ!」
───そんな風に、見事にハモっちまうトコに決まってるだろうが。
言わずもがなの文句は勿論心にとどめておいて、村雨は御門に先を促した。
「とにかく。いくらお前が酔狂でも、真夏にンな格好するほどでもねえだろう? わざわざ見るからに暑そうな平安装束で来た理由ってものを、聞かせてもらいてえもんだな」
すると御門は、どこからか取り出した扇子を手慣れた仕草で広げ、忍び笑いを漏らした。………雰囲気はまるっきり、平安朝のご貴族さまである。
「平安装束には違いありませんがね。これは言わば陰陽師装束なのですよ? お前も何度か見たことがあるはずです」
そんなもの、そうそう見分けが付くものか。
心の中で毒づく村雨だったが、その御門の「陰陽師」という言葉に反応した人間がこの場にはいた。
ごくごく一般人のはずの───と言うにはかなりの語弊があるが、そうとしか言いようがない───、的場瞬である。
「陰陽師、って………不思議な力を使ったり、妖怪を退治したりしたって言う? あの、有名な安倍晴明とかの………?」
「陰陽師は何も、安倍ばかりがビックネームじゃないわよ」
思い切り不機嫌にツッコみを入れる伊周の手の甲を、御門は無情にも、わざわざたたんだ扇で叩き落とす。
「〜〜〜〜〜〜っっっ!!!!」
「怪我人はおとなしく傍観していなさい。………村雨」
「ああ。………ほらともちゃん、こっちで治療するからよ」
「〜〜〜っっ、お、覚えてろよっ、てめえ………っ!」
あまりの激痛に、伊周も珍しく男言葉丸出しだ。
骨が見えんばかりに肉が剥けてしまっている伊周の掌を、村雨が『月見酒』でゆっくりと癒してやる。それを横目で見ながら、御門は的場に社交辞令的な笑みを向けた。
「お騒がせいたしましたね。………ええ、私はその安倍晴明に連なる一門・御門家の八十八代目当主・御門晴明と申します。以後、お見知りおきを」
「!? ど、どうしてそんな人が………」
思いもよらない大物の登場に、さすがの的場瞬も完全に毒気を抜かれた格好となっている。
おそらくは御門の陰陽師装束は、自分が陰陽師であることを的場に受け入れやすくする演出だったのだろう。少なくとも、派手な洋装の伊周が陰陽師だと言うよりは、よほど信憑性がある。そしてそれはとりもなおさず、その筋の専門家を意味し、的場に抗戦の意欲を失わせる効果も生んだというわけだ。
それでも、一分の隙も相手に見せることはなく、若き当主は静かな口調で的場に相対した。
「どうやらあなたは、今回の『事件』の真相を知るのはここにいる、村雨と伊周だけだと思っておられたようですがね………実は私どもも、ひそかに動いていたのですよ。警察から調査を依頼されていまして」
「「「なっ!?」」」
的場はむろんのこと、それは村雨も伊周も初耳だった。
悪友の仰天面に溜飲が下がるらしく、実に機嫌良く笑いながら御門は説明を続ける。
「───まあ本来なら、単なる事故として処理されかねないところだったのでしょうが、たまたま被害者に応急手当を施した救急隊員の1人が、雪国経験者だったんですよ。その人物がわずかではありますが、どう考えても夏では有り得ない症状───つまり真冬の雪国でもなければ見受けられない症状───を見咎めましてね。そして、実際に被害者を診た担当医も幸運にも雪国出身者だったおかげで、その救急隊員の意見を聞きいれた結果、私どもに話が回ってきたと言うことなのです。
真夏でも、人を一瞬のうちに凍り付かせる事が出来る『術』は、ありうるのかと、ね………」
御門の言葉を聞くうちに。
的場は徐々に、頭に上っていた血が冷めてきたのであろう。へたへたとその場に崩れ落ちてしまう。
「ってことは何か? よしんば俺たちがここでヤラれたところで、御門の追及からは逃れられなかったってわけね。まあ………若旦那も真相は掴んでたから、同じ事だがよ………」
村雨は的場に同情的なセリフを吐いたが、一方の伊周はそれどころではないと憤慨気味に詰め寄った。
「晴明………あんたまた、アタシたちを使い走りアーンド利用しくさりまくった挙げ句の果てに、いいトコ取りしようなんて目論んでた、なんて言ってご覧なさいよ………? ただちにこの場でぶっ飛ばしてあげるからっ! 姑息にも式神でも飛ばして、アタシたちの様子覗き見してたんじゃないでしょうね? 良いタイミングで現われて、恩着せがましくするためにっ! あたしはあんたの天敵でしょうけど、しーちゃんは奇特にもあんたとオトモダチしてくれてる貴重な人材だってこと、アンタ自覚してないわけぇ!? それに、あんたがもったいぶらないでとっとと駆けつけてれば、アタシたちも、この人だって、しなくても良い諍い、しなくても済んだかも知れないのよっ!」
この人、と伊周が指し示したのは、放心状態で座り込んでいる的場瞬。
いくらファンだからと言って、随分贔屓してないか? と、村雨は多少ムッとなったが、彼の言い分ももっともである。そうでなくても御門は今までに何度か、伊周を顎で使うような悪癖があったから。今回は何とか殺し合うような事態に発展しなかったから良いようなものの、そうでなければ後味の悪い結果になっていたのは疑いない。
が、珍しく今回御門は、不快さをあらわにした。
「人聞きの悪いことを言わないで欲しいですね………。私はずっと病院に詰めっきりだったんですよ。式神など放っている余裕など、ありませんでしたし。天野さんたちが駆け込んで来て、あなたたちの危機をそれとなく察したから駆けつけた。───それを恩着せがましいだの何だのと、随分と言いたい放題ではありませんか? 被害妄想も良いところだ」
「今までのあんたの所業を棚に上げて、何偉そうにしてるのよ。それに、あたしたちの危機ってどういう意味? アタシとしーちゃんが一緒なら、そんじょそこらの奴等なんて、目じゃないんだから。甘く見ないでくれる?」
「呪いの炎で焼き殺されかけること1回、暗殺組識に急襲されたこと1回、拳銃で重傷を負わせられたことが1回。………大言壮語を吐けるような身分ですか」
「って、いちいち指折って数えるかあっ!!」
───一触即発状態のインケン対決は放っておいて、村雨はおや? と首を傾げる。
今日の御門は、そんなに差し迫った用事はなかったはずだ。だからこそ村雨は、伊周と夕食をしに出たのだから。
なのに、陰陽師が管轄すべき仕事が発生したというのに、しかも警察に協力を依頼されていながら、犯人確保にも乗り出さずに病院に詰めっきりだったというのは、一体………。
それとも、危険な『力』を使う犯罪者を捕まえる以上に大事なことが、病院にあったとでも言うのか?
「───!?」
不意に。
村雨の記憶の一部がフラッシュバックする。
凍りかけた絵莉を『絶場・素十九』で吹き飛ばした自分。外に放置されていた、水の溜まったビニールプール目掛けて。そして絵莉は無事、生への帰還を果たしたのだった。
だが───これと同じような情景に、それ以前に遭遇していたことはなかったか?
………あったはずだ。
確かに。
どこかで。
以前。
そして蘇る記憶は、噴水に倒れ込む女性の姿を映し出す………。
───そこまで思い至った村雨は、とんでもない可能性に突き当たって愕然となった。
あまりの衝撃の大きさに混乱を押さえ切れず、思わず心のままに言葉を発してしまう。
「病院に御門が詰めてたって、まさか………まさか天野さんの友達って、死んでなんてなかったのか………!?」
「しーちゃんっ!!」
パンッ!
叫ぶと同時に横面を張り飛ばされ、村雨は思わず「何しやがる!」と食って掛かろうとして………言葉を飲み込んだ。
伊周の、怒りと悲しみを湛えた表情に。
御門の、どこか冷たい視線に。
そして───。
「死んで……………なかった……………?」
的場瞬の、期待と不安がない混ざった声が耳に届いた時、ハッ! と自分の失言を思い知る村雨である。
次いで───、
「死んでなんてなかったん………ですか? 彼女は。本当………ですか? 僕は………殺人を犯してなかったって………ねえ?」
殺人者にならずに済んだ。
そう、断言して欲しいと訴える、せっぱ詰まった的場の眼差しに………。
<俺は………考えなしに何て事をっ………!>
村雨は己の言動を後悔せずにはいられない。
聡い伊周のことだ。自分と同じだけのものを見て来たのなら、きっととっくにその可能性には気づいていたことだろう。なのに一言たりとも口にしなかった、その理由。
───彼には分かっていたのだ。根拠はあっても実質が伴わない可能性を告げることで、的場に要らぬ期待を抱かせてしまう、その危険を。
そしてよしんば、その淡い願いがはかない夢と消えた時、今まで以上の衝撃が的場を襲うであろうことを……………!
あの日、自分にとって一番大切な少女を救う事が出来なかった時、同様の居たたまれなさに、村雨は唇をかみ締め、的場の必死な視線から目を逸らす。
それしか───できない………。
緊迫の時間は、だがそう長くは続かなかった。
御門が、呆れたような溜め息を深く深くついた後、おもむろに切り出したからである。
「………死んでは、いませんよ。確かにね」
「!?」
「でも、死んでいないというだけ………ただそれだけです」
的場に質問をさせる隙を与えず、たたみ掛けるように続ける。
「手段が『凍結』だったのが幸いというか。………知っていますか? 村雨。金魚を液体窒素で急激に凍らせても、すぐに水に浸ければ元に戻って元気に泳ぎまわるという実験のことを。それと同じ原理です。ただ………この実験は未だ人間では、実現されたと言う話は聞いてはいませんね。倫理上に問題があり過ぎますから、当たり前ではありますが」
感情を隠すように御門は扇を広げる。
「………私が病院にいたのは、今回の被害者の女性を蘇生させるためだったのですよ村雨。とりあえず打てる手は全て打ちました。後はそれこそ、彼女の運に任せましょう。あなたぐらいの破格値の悪運に恵まれんことを、ね」
彼にしては珍しく、弱気で当てにならない言葉でもって、話題を打ち切ろうとした。
───まさにその時である。
「いや、もうその必要はない!!」
この場にいるはずのない5人目の男の声に、一同はぎょっとそちらを見やる。
ぜいぜいと、荒い息を懸命に整えながらも、この場に駆けつけるや否や言葉を発したのは、村雨の言うところの『若旦那』であった。
「なっ!?」
「何故あなたがここに!?」
「天野さんの護衛はどうしたんだよ!? お前」
立て続けに質問を並べ立てられ、『若旦那』は苦しい息の下からもとりあえず、言葉を繋げようと試みた。
「………ちゃんと、送り届けたよ、警察病院に。そ、そしたら、ちょうど彼女の友達が意識を取り戻した、ところだったんだ!」
「それは本当なのですか!?」
御門の問いかけに、しっかりと頷く『若旦那』。
「ああ。直接、僕もこの目で、確かめた、から。ちょうど、御門くんが出て、行ったすぐ後、入れ違いに、なったんだ。………天野さんも、ちゃんと友達と再会できたよ。喜んでた。公園で倒れた時の、記憶は、さすがにないらしいけど、もう、心配はないって話だ」
「って、あんたここから病院までって、かなりの距離があるじゃない。御門みたいに、次元の空間を弄くれるってならともかく、どうやってこんな短時間で往復できたのよ? いくら忍びだからって」
「友達に………バイクに乗ってる友達に、すぐそこまで、乗せて来て、貰ったんだ。ちょうど通りかかったから。このことを、一刻も早く知らせたくて」
何とか呼吸が整ってきたのだろう。『若旦那』は大きく深呼吸をしてから、一気に告げた。
状況のあまりの急展開にぼんやりしているしかない、的場瞬に。
「そういう事なんです。的場さん、少なくともあなたは今回は、殺人は犯してなんてなかった。彼女も自分の身に何が起きたかなんて、分かっていない。天野さんも、まさかあなたがこの事件に関わってたなんて、思いもしてないんだ。
………だから。もうやめてください。これ以上、あなたが罪を犯す意味なんて、どこにもない!」
───『若旦那』のこの言葉は。
村雨の胸の中にすとん、と音を立ててとどまった。
その場にうずくまったまま、茫然自失でいた的場瞬。
「……………………ごめんなさい………………」
村雨たちが見守る中、しばらくして初めて彼の口から突いて出たのは、そんな言葉だった。
「ごめんなさい………ごめん………『彼女』を………殺してしまって………。殺したことを、黙っていて………。天野さんを………殺そうとして………彼女の友達を、間違って殺しそうになってしまって………。
ごめんなさい……………本当に………本当にごめんなさい………っ…………!!」
今まで言えなかったこと。認められなかったこと。押し殺してしまっていたこと。
それらを全て吐き出してしまえとばかりに的場は、謝り終えないうちに泣き崩れた。
ぼろぼろと、子供の頃から溜めてきたような大粒の涙を、何のためらいもなくこぼし続ける。
だが───その場にいた誰も、それを滑稽だとは思わなかった。ひどく切なく、美しい光景として見つめる。
彼は………やっと開放されたのだ。自分を苦しめてきた無限ループの悪夢から。
そしてこれから始まるのは、長く長く、いつまで続くか分からない償いの日々。だがきっと、彼はそれを乗り越えていくに違いない………。
<続く>